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音吉顕彰会からのお知らせ

1.  音吉の二番目の妻であり、音吉の子どもたちウィリアム、アイーダ、ジュリア・ヘップバーンの母親であるルイーザ・オトソン(旧姓ブラウン)は、これまでマレー系あるいは白人との混血と言われておりましたが、シンガポールのリョン・フォクメン氏の調査1により、父親はウィリアム・ブラウン(William Brown)、母親はケイト・ブラウン(Kate Brown)といういずれもスコットランド系の両親を持つことが判明し、当時ヨーロッパからアジアへ移住した人「ユーラシアン」だと思われます。
1Leong Foke Meng, Later Career of Otokichi, シンガポール日本人会2012

2.  1877(明治10)年、音吉の長男ウィリアムが父親の遺言である日本への入籍を果たすため、シンガポールから日本へ向かう途上、上海で倉敷の塩業家「渾大防益三郎」から協力を得ることができ、渾大防がウィリアムの日本国籍取得の希望、音吉の実家へ親族の生存を伝える手紙を同じく倉敷の塩業家である「野崎武吉郎」に託したことは以前から知られております。
 
そして、1877年9月11日付けの大阪日報に同紙へ音吉情報を投稿した人物は「備中倉敷 退車主人」と名乗っていますが、太田健一・山陽学園大学名誉教授の調査2によれば、この人物は「倉敷の薬種商 林孚一」であり、大阪日報への投稿は「一挙に世論に広く訴えることが目的で、音吉の長男の帰国作戦は倉敷の益三郎、武吉郎、孚一の三者協力で進められた」とされ、2015(平成27)年4月29日付け毎日新聞岡山面3で小林一彦記者が報じています。
 林孚一(1811〜92)は、勤王派の志士や天狗党を支援し、全国に幅広い人脈を持っていた人物です。
2太田健一(2015)『倉敷の歴史』25号(倉敷市)
3小林記者による関連記事が、毎日新聞岡山面の同年5月13日
9月3日(夕刊社会面)、9日、10日に掲載

3.  音吉が生まれた「山本家」は、山本武右衛門と登美の子で宝順丸に乗り組んでいた3人の息子、藤吉、吉太郎、音吉がいずれも遭難・死亡と判断されたため、桑名からの養子(養父の家名を相続し同じく山本武右衛門)と親戚筋からの養女「さと」が跡目を継ぎ、その子「とせ」へとつながりますが、同じく太田健一氏の調査によれば、「さと」は「左土」、「とせ」は「登世」と書き、生家や生年月日等も判明しています。
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